okku's diary

Jリーグ・大宮アルディージャ・読書・読書会について書くブログ

文章の読解力…ではなく鑑賞のことを考えてみる。三島由紀夫『文章読本』

「文章の読解力」というテーマは話題に挙がりやすい言葉だと思います。少なくとも「文章の鑑賞」というテーマに比べると。

みなさんは文章を鑑賞する、ということについてどのようにお考えでしょうか。

文章の鑑賞とは個人的な趣味の問題である、という態度が最も広く定着しているものであると思います。この態度を形作るのは以下のような考えでしょう。第一に鑑賞とは個人の感性に立脚して行われるものという考え。第二に鑑賞とは個人の感性・信条に委ねて自由に行うものであり、他人からものの見方を強制されるべきではないという考え。

これが文章の読解ということであれば様相は随分と異なってくるでしょう。文章の読解とは感性の違いや特別な才能の有無とは関係なしに発揮できる技能であり、訓練によって誰もが文章の意味を正確に理解する力を養える…という考え方。日々の生活の中で文章を読む必要のある機会は沢山あるのだから、できる限り読解力を高め正確に文章を理解できるようになるのが望ましいという考え方。こういった考えが読解力をどのように養うべきかといった話や読解力を身につけなければいけないという話につながり、何かと話題に挙がりやすいものとなっているのだと思います。

 

文章を鑑賞すること。これは他人から口を出される事柄ではなく、深く考えなさいと何かに要請されるようなものでもありません。ですので文書を鑑賞するということについてあまり考える機会はないという方は私を含め沢山いらっしゃると思います。

ですが、鑑賞について考えるのもたまには面白いものだと思います。

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 文章の鑑賞について考えるのであれば、三島由紀夫の『文章読本』を一読することをお勧めします。『文章読本』は三島由紀夫が様々な文章について語っている本です。日本語の特質についての考察から始まり、文学・戯曲・評論・翻訳…といった文章について取り上げています。

文章読本』目次

第一章 この文章読本の目的

第二章 文章のさまざま 

 男文字と女文字

 散文と韻文

 文章美学の史的変遷

 文章を味わう習慣

第三章 小説の文章

 二種類のお手本

 短篇小説の文章

 長篇小説の文章

第四章 戯曲の文章

第五章 評論の文章

第六章 翻訳の文章

第七章 文章技巧

 人物描写——外貌

 人物描写——服装

 自然描写

 心理描写

 行動描写

 文法と文章技巧

第八章 文章の実際——結語

附 質疑応答 

解説 野口武彦

 この『文章読本』の魅力は、様々な文章を引きながらその良し悪しや特徴について軽快に評しているところです。60年近く前の本ですので時代の制約はあるでしょう(冒頭の男性的文章・女性的文章という対比には驚きました)。現代の文学・言語研究の見識と照らせば説得力に欠けるような箇所もあるかもしれません(どこがそうであるのか当然私には判断できませんが…)。そうしたことを念頭に置き、三島のものの見方を楽しむ本と考えること。そして文章についてあらゆる角度から考える手引きの一つとして捉えるのが適当な本である思います。

論じられていることはどれも興味深いのですが、特にこれは!と印象に残っているのは…「視覚効果」「韻文と散文」「小説の文章」「翻訳の文章」について論じられた箇所です。

この中で特に私の認識に変化を与えたのは「韻文と散文」についてです。「韻文と散文」のことは恥ずかしながら今まで全くと言ってよいほど考えたことがありませんでした。詩・俳句・小説・記事・論文…はそれぞれ”そういうもの”という認識でしかなく、そこに韻文的か散文的かという視点は持ち合わせていませんでした。

韻文という点に着目するようになると、文章における音の問題というものの存在にも意識が向くようになります。真っ先に思い浮かんだのは、これは翻訳文を考える上で大事なポイントであるなということ。韻文的な要素を持つ文章を訳した時、その文章全体の意味は訳されていたとしても音のつながりが持つ効果が移されていなければ…それは忠実な翻訳と言えるのでしょうか。文章と音のつながりを考えるのはとても大事なことだと思います。

音のことを考慮するかどうかで文章の持つ意味が変わるものとして私の中で思い浮かんだものにラップがあります。ラップと位置付けられる歌の歌詞を見る時、それはどのような音で歌う作りになっているのかを知っているか否かで受け取る印象は全く異なってきます。どのタイミングで発音の強弱をつけるか、音を区切るか、リズムを変調させるか、そうした情報を知らない歌詞を見てもその歌が持つ本当の意味を知ることはできないでしょう。

 

「翻訳の文章」について書かれた章も示唆に富むものでした(本書を知ったきっかけも翻訳について論じた箇所からの引用です)。割かれたページは短いですが、翻訳文に対する三島の態度は一聴に値するものであると思います。

 一般読者が翻訳文の文章を読む態度としては、わかりにくかったり、文章が下手であったりしたら、すぐ放り出してしまうことが原作者への礼儀だろうと思われます。日本語として通じない文章を、ただ原文に忠実だという評判だけでがまんしいしい読むというようなおとなしい奴隷的態度は捨てなければなりません。

 三島由紀夫文章読本』第六章 p121より 

 

本書を読むことは疑似的な読書会のようでもあると思います。他者がどのように文章を見ているか、ということを知るのは刺激もあり楽しいものです。もちろん三島がどのように論じようとも、誰がどのように論じようとも、自分自身がよしとする読み方を捨てる必要はありません。ですが、たまには自分の読み方だけではなく他人の読み方を可愛がったりしてみてもよいと思います。文章の鑑賞というのは個人的な趣味の問題であるかもしれません。しかしただ放っておけば各々の中で鑑賞する力が養われるとは限りません。他者の見方を知ることで芽生える見方もあると多々あると思います。私のように、文章に対してこれといった見方を持たない者にとっては尚更のことです。

 

いま、息をしている言葉で。 「光文社古典新訳文庫」誕生秘話

いま、息をしている言葉で。 「光文社古典新訳文庫」誕生秘話

  • 作者:駒井 稔
  • 出版社/メーカー: 而立書房
  • 発売日: 2018/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 本書のことはこちらの本を読んで知りました。出版・翻訳について関心のある方は一読をお勧めします。 

他者の読み方を知る、という点では読書会も大事な場です。