okku's diary

Jリーグ・大宮アルディージャ・読書・読書会について書くブログ

『読書は孤独な行為』なのか 書評で、読書会で、立体的に本を読むということ。そして文化を豊穣させるということ。

先日の正月休み中の出来事。

本屋でこんな本を手に取った。 

本の本 (ちくま文庫)

本の本 (ちくま文庫)

 

この日は「読書論」の棚を見ていた。

「読書論」の棚は読書について書かれた本が集められたエリア。読書法の本や書物の歴史を辿った本もあれば自宅に書庫を建設した人の回顧本とか作家について論じられた本なども置かれている。そんなエリアのチェック中に見つけた本だ。

こちらは文芸評論家の斎藤美奈子さんの過去の書評をまとめた書評集。

文庫本としては大ボリュームのサイズでなかなか存在感がある本だった*1。このボリュームも目を引いたが、何より気にかかったのはこの膨大な量の仕事を改めてまとめた著者と編集者はさぞかし大変だっただろうなあ…ということ。作り手側のどんな後日談が載っているのかが少し気になったのであとがきを見てみることにしたのだ。

すると書評についてこんなことが書かれていたのだ。ざっくり要約すると

 『新刊や気になっている本について調べるために書評を読む人が多いだろうけど、私(斎藤さん)は本を読み終わった後に書評を読むということをやっていた。本を読む行為は基本的に孤独だけれど、書評を通じて自分とは違う人が本をどのように読んだのかを知ることができる。受け取り方の違いを知る・自分では気づかなかった本の価値の発見する・分からなかったところの意味が分かるようになる。読みを立体的なものにできるのだ。』

 

 …という話だった。*2

 なるほど、それは書評とのいい付き合い方だなあと思った。…と同時にまず思ったのは「読みを立体的」にすることは読書会でもできるよね、ということ。そして何よりこれを読んで考えたのは『読書は孤独な行為』であるという読書観のことだ。

 

少しだけ脱線。

立体的に読む、という観点から書評と読書会を比較すると互いに長所がありどちらかが全面的に優れているというものではない。そうした前提を念頭に置きながらこの二つにどんな差異があるのか見てみると、その最も大きな差異は他者との相互作用の有無ではないだろうか。

書評を読むということは基本的に一方通行的に発信されたものを受け取る行為だ。評者に対して私はあなたの書いたものを読んでこう思いましたと伝え、評者がそれに返答する、それに対してまた私が何かを言い…という動きがあることが前提ではない。一方(あらかじめ同じ本を読んでくるタイプの)読書会は他者に本の感想を伝えると同時に他者から本の感想を聞く、これを行うことが前提の場だ。そして互いに話したこと聞いたことが刺激になり一人の読書ではたどり着かなかったところへ話が進んでいく。各々の読みが相互に作用することによって読みのあり方を開いていくのだ。

書評の長所は他の観点にあるのだと思う。一つは時間と空間にあまり制約がないところ。いつどこでも読むことができ、どこでいつ読もうとも内容が変わることはない。また書評は基本的にコンパクトな構成であることも長所になる。一番世に送り出されるタイプの書評―新聞・雑誌あるいは専門のジャーナルに載るもの―であれば、数百~数千字の世界で書かれるものとなる。そのため書評は端的で論点が明確に示されたものになりやすい。量的にも内容的にも読むことに苦心するものではない。かといって薄味すぎてその人の読みを味わうことができない、ということも案外ない。ただ逆にこれは書評の短所でもあって、上手くまとめてきれなかったものや書評に落とし込むには曖昧な感想などはここには存在しない(そういう感想が意外と読みを立体的にするうえではっとても大事だと思う)。

 

脱線が長くなってしまった。

そもそも『読書は孤独な行為』であるという言葉にはどんな意味が含まれているのだろうか。この『読書は孤独な行為である』という言葉には複数の観点が同居しているものだと思われる。

まず真っ先に挙げられるのは、本を読むという行為は基本的に一人で行うもの、という考えだろう(上記の本で指していることもこちらに該当)。この考えを導くのは…本という媒体の特性から読書とは必然的にそうなるという考えと一人で読書を行うということに価値を置く考えだ。本という媒体は複数人で読むのには向いていない。人それぞれ読むペースは異なるし、物理的にも同時の閲覧に限界があるだろう(オーディオブックを使えば物理的な限界はかなり拡張できるだろうがいずれにせよペース問題は解消しない)。そして読むペースの問題と一人で読むことに価値を置く考えには密接な関係がある。文章を味わうこと、自らの関心に従って思索を深めること…これが読書においてとても重要であり、これを行うためには他者からの干渉を受けないことが必要である。だから一人で読むということは大切なのだ、ということだろう。このような考え方によって一人で読むという行為は実行の容易さと価値の面から支持される。

 そして次に挙げられるのは読後の孤独さがもたらすものだろう。読んで感銘を受けたものがあっても、それについて読んでいない他者と共有することは難しい。どんなに素晴らしい話者が本の内容のエッセンスを伝えようとも、読書体験と同一のことを経験させることは不可能だ。読むことなしには得られないものが本には沢山ある。文体・エッセンスに落とし込むが難しい良い意味で煮え切らないもの・曖昧な部分からくるもの、そして内容の前後関係・全体の流れ…等々。こうしたものがあるからこそ、本を読んでいない人とその本の素晴らしさについて語っても消化不良の感を覚えるのではないだろうか。だが、大多数の人はよほどのことがない限り同じ本を読んだ人と話す機会は日常ではほとんどないはずだ。読んだ内容について心ゆくまで話せないこと、これが孤独をもたらしているのではないだろうか。

 

『読書は孤独な行為』という読書観はそれほど特異なものではないのだろう*3この考えがあまりにも当たり前のこととなっていることが、個々人の読書と人生をかえって狭めていないか、更にいえばこの社会の可能性を狭めていないか、と強く思うのだ。

他者がどのように読んだのか、これを知ることで得られる知的刺激がある。そしてここから始まるものに私はとても大きな可能性を感じている。

書評や読書会を通じて他者の視点を知る。読みが立体的になる。そうすると関心の範囲はおのずと広がる。一人で読んでいた時には気にならなかったけど、他の人の感想を聞いてもっと考えてみたいと思うことに気づく。関心の外にあったけれどこれは調べてみたいと思ったことができる。これをしてみたいとかここに行ってみたいとかそんな気持ちも時に生まれる。そうして読書生活も人生も新たな展開をみせる。こうして、読みたいと思う本・知りたいと思うことが立体的な読みによって新たに生まれるのではないだろうか(もちろん一人の読書だってこのことは起きるけれど立体的な読みならその可能性が更に広がるのではないか)。

立体的な読みによって知的刺激を得られる。知的刺激によって新たな知的興味が喚起される。この行為がありとあらゆるところで行われていくと…文化は豊かになっていくのではないだろうか。そして社会を豊かにしていくことにつながるのではないだろうか(いささか壮大すぎでしょうか)。*4

読書中は孤独であることが大切である、と私も思う。しかし読後も孤独にならざるを得ない、ということはない。書評で、読書会で、読後に立体的な読みを行うことがもっと広く読書好きの間で強く認識されてもよいと思う。それが読書好き・書店業界・出版界の幸福に、文化の発展につながっていくのではないだろうか。

本を読んだら必ず立体的な読みをしなければいけない!と言いたいわけではない。その本に対してどう向き合いたいのかによって読後に何をするか・しないかは選べばよいし、その人がよしとする読書生活のあり方に調和しないのであれば無理に立体的な読みを行うことは必要はない。ただ、立体的な読みという読後の選択肢についてもっと広く読書好きの間ですぐ思い浮かぶものになると、まだまだ私たちの読書は楽しく刺激のあるものになるのではないかと思うのだ。

 

最後にウェブと立体的な読みについて。他者の視点を知るためにウェブに投稿されている本のレビュー・感想を利用するという手もあるのでは?という意見があると思う。しかし私はウェブに投稿されたものを通して読みを立体的にするにはある要素が必要だと考えている。それはこの投稿の内容をひとまず信頼してみよう、と思える要素だ。商業媒体や専門ジャーナルなどに掲載された書評であれば信頼はこんな形でできる。まず評者が対象の本を読んでいること、そして評者の持つ知見や実績から「〇〇さんの書くことであればひとまず耳を傾けてみよう」と思うことができる。読書会の場合も、読了が参加条件の会であればそこで聴く意見は少なくとも読了済みの人からのものになる。だからあまりにも違う感想に遭遇しても「読まずにいい加減なことを言っているのでは?」と考えてはなから感想を受け付けないということも起こりにくい。

ウェブの場合だとこういった信頼するためのポイントが見えないものが多いのだ。そもそもこの投稿は本を読み終え上で書かれているのか?ということから疑わなければならないことが一番の課題ではないだろうか。ウェブの投稿でも特定分野の専門家(それも身分が明らかになっているとか、HN名義でも専門書籍を出した経歴があるとか)の投稿や、在野の書評家でも専門家を含む多数の人に支持されるような「ひとまず耳を傾けてみよう」と思える人が書いたものはある。また実際に面識のある人でこの人の書いたものなら信頼していいだろうと思うものも人によってはあるだろう。しかし大多数のウェブのレビュー・感想はそうした条件を満たしていない。そうなるともしウェブの感想であまりにも自分とは異なる感想を書いたものがあっても「ちゃんと読んでいないのでは?」という疑念が頭から離れず、ひとまず信頼して聞いてみようと思うことができない。読みが広げられない。だから現状大半のウェブの投稿は読みを立体的にするには力不足であると思う。

 

★読みを立体的にするものとして私は読書会を推したい

*1:書評集という仕事はもちろん様々な方が出していて何も斎藤さんのものだけが突出して量があるというわけではない(少なくともその日その棚を見た印象では)。手に取ったのは斎藤さんって方の名前は聞いたことがあるけれど仕事ぶりはよく知らないなあ…と思ったこともあったのだと思う。

*2:後日地元の図書館で再度読んで確認した。また似た話がこちらのサイトにも載っている

筑摩書房 『本の本』発売記念 斎藤美奈子特別講座「書評の読み方、書評の書き方」

*3:身近な範囲の話だとこんなことがあった。還暦を過ぎた父は世間的には読書家の部類に入る方だと思うのだが、その父と以前読書会の話をした時、父から「読書は孤独な行為だと思っていたからね」という言葉を聞いたことをとても覚えている(細かい文脈は忘れてしまったが

*4:紹介型の読書会やビブリオバトル的な取り組みも読んでみたいと思うこと・知りたいと思うことを増やすということに貢献すると思う(紹介者の力量・紹介者との相性に左右されるところはありそうだが…)。